覚えているのはただ。
静かにしかし容赦なく降り注ぐ雨と。
腕の中で震える小さなぬくもりと。
濡れて重たくなった服と髪とそして。
ふいに立ち止まる黒い影。
差し出された一本の傘。
太く力強い腕がか細いそれを掴み。
己をそこから連れ出した。
世界が、始まりを告げていた。
$ 紅蒼曲 第一楽章 $
偽の茶の髪が揺れる。
同じく偽の黒い瞳は標的を見据え。
そしてまた同じく、しかし本物の黒い衣装は闇に溶け込んだ。
『−−敵はB地点で仲間と合流。人数は5。今より約20秒後に仕掛けます……カウント開始!』
少女の声が一層高くなる。
ソプラノのそれは直接鼓膜を響かせ脳天にまで届く。
冷静に数字を告げるその声と共に己の中でも時を刻み。
手の中の獲物をもう一度握りしめそうして。
『−−6,5,4,3…小狼君!黒鋼さん!ファイさん!』
「了解」
「ああ」
「オーケイ」
3つの声が重なる。
それと同時にそれぞれの獲物が思い切り振り下ろされた。
次の瞬間そこにいたのは。
鮮血に彩られた、3人の男だった。
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「ご苦労様です」
そう黒髪の少女は告げた。
年はまだ14,5であろうか。腰まである長く豊かな黒髪をふわりと揺らす。
「これが例のブツだ。説明は面倒だから小僧に任せる」
3人の内特に大柄な男が乱暴にそう告げ欠伸をする。
それに少女はひとつ苦笑し視線を少年へと向けた。いきなり白羽の矢が当たった少年は少々戸惑いながらも報告を開始する。
「ええと…ここ一年の児童売買手口とその顧客データ全てがそこに。
奴らのトップは逆上した手下によって殺されていました。残った者達の引き渡しも既に完了しています」
「分かりました。…で、黒鋼。今日も誰も『殺して』はいませんわよね?」
にこり。
顔に笑みを張り付け少女は言う。黒鋼と呼ばれた男は文字通り嫌そうな顔をし。
「へいへい。誰も殺ってねーよ。」
「なら良いのです。無駄な殺生は避けられるのならば避けるべきですわ。こういった世界では特に」
命など塵よりも軽く扱われるこの世界では。
甘い考えだと誰かは言うかもしれない。しかし己はこれで良いのだと少女はそう信じている。
「さて、では子ども達の救助を急いだ方がよろしいですわね。桜ちゃん!」
振り返るとそこにはまた別の少女が一人いて。
薄茶の短めで独特な髪型が印象的な、美人という部類の黒髪の少女と比べて、どちらかと言えば可愛らしいタイプだ。
年も同じく14,5くらいに見える。
「これを分析して子ども達の居場所を探してください」
「分かった任せて」
桜、と呼ばれた少女のその口から飛び出したのは外見通りの可愛らしい声で。それは先程のソプラノだった。
渡されたCD−Rをパソコンに取り込み手を動かす。
早くて目で追いきれない事で有名な彼女のタッチは今日も健在だ。
まるで楽器を奏でるかのようにキーボードの上を10本の指が滑っていく。
そうしてカタカタカタという音をバックに黒髪の少女が一言。
「今日はもう3人は下がってくださって結構ですわ。汚れた衣服はいつもの場所に。
後でまた連絡致します。それまで十分身体を休ませてくださいませ」
おやすみなさいと。
にこりと微笑み言葉の終わりにそう付け加え。そしてその通りに3人は各々の部屋へと戻っていった。
$
部屋に入ると胸に飛び込んできたモコナをそのままにシャワー室へと駆け込んだ。
乱暴に服を脱ぎウィッグを外す。最後にヘッドセットを床へ投げ捨てると、それを避けるかのようにモコナは慌てて部屋へと走っていった。
コックを強く捻ると冷たい水が全身を襲う。上から降り注ぐシャワーにああまるであの時のようだなとちょっと笑い。
温度調節さえ忘れしばらくそのままそうしていて。
鉄の匂いとそれに伴う嘔吐感が完全に消えて無くなる頃にはすっかり身体は冷え切っていた。
風呂を出、鏡を覗く。そこに映っていたのは黒い瞳をした己の姿で。
金の髪に黒い瞳。余りに違和感を覚えるその風体に、今更ながらコンタクトを外し忘れていた事に気が付いた。
倦怠感を伴う腕を持ち上げ取り外す。
そうして滴り落ちる雫を拭いもせずそのまま部屋へと戻った。
モコナの気配はいつの間にか消えていて。
先程無視してしまった事を怒っているのだろうかと考えているとふいに部屋の前に2つの気配が現れた。
モコナと、そしてもうひとつの。
「…何て格好してんだアホか」
ノックもせずに入ってきた第一声がそれで。
現れたのは先程黒鋼と呼ばれた男だった。その姿を認め駆け寄る。
すると男の頭から白く長い耳が2本生えてきた。と思ったら次にそこから飛び出してきたものは。
「モコナ!」
「そいつ俺の部屋の前でウロウロしてたぞ」
「あ、何だ黒むーのトコに行ってたの」
「ドア、カリカリしやがってうるさいっての」
まんじゅうのくせに、と男はその耳を引っ張る。
それに対しモコナはふーっとまるで猫の様に毛を逆立てた。それにクスリと笑い。
「ダメだよ黒ぽん。モコナいじめちゃー」
「こいつにはこれくらいで十分だ」
「そんなんだから嫌われるんだよ」
ねーヒドイよねーと。
腕の中の兎に語りかける。それに男はふん、と鼻を鳴らしシャワー室へと歩いていった。それを見、後を追いかける。
脱衣所で脱ぎ散らかした衣服らを踏みつけ男はバスタオルを取り出すとこちらへ放った。白いそれを頭から被り視界が遮られる。
「黒りんー?」
「じっとしてろ。拭いてやっから」
男の手がタオルにかかる。
タオル越しに男の体温を感じ意識せずともほう、と息が漏れた。
同時にモコナの顎下を撫でてやると気持ちよさそうにその短い尾を揺らす。
「お前…」
「え?」
「また冷水浴びたな。冷てぇぞ身体」
「あ、」
言われて気付く。
そうだ以前も同じ事をしたら男のみならず上にまで話が行き、黒髪の少女にこっぴどく叱られたのだ。有無を言わさぬあの笑顔と共に。
しまったという顔は隠せなく。怒られる前に何か言おうと口を開いたが、しかし次の瞬間頭を掴まれ乱暴に掻き回された。
「ぃ、たいっ!ちょっと黒た、」
「お前の言い訳なんざ聞きたくねぇから少し黙ってろ」
傍から見れば髪の毛を拭いているのだが、余りにも乱暴なためそう表現せざるを得ない。
しかし思わず非難の声を上げてしまった自分にとって、そのどこまでも強引で乱雑な男の行動は心地良い以外の何者でもなく。
まいってるな、と思う。
腕の中でモコナも楽しそうに耳を振るわしている。首輪替わりの耳飾りがちらちらと揺れた。
$
西暦20××年。
マフィアがはびこるこの国で。
この男、黒鋼に拾われたのは約半年前の事だった。
男が所属しているのだというその組織の名は「白鷺」と言った。
「白鷺」はこの国の約80%ものエリアを支配下に置いており、そして政府に認められている組織でもあった。
いや認められているというのは若干違う。
かつて財政難で窮していた国家に多大な援助をし立ち直らせたのは他でも無い「白鷺」であり。
その関係で現在でも国は表立って取り締まる事が出来ないのだ。所謂、黙認である。
マフィアという名を語っているにも関わらず「白鷺」の活動は他と異質だ。
主に貧民街の援助や事業復興、他のマフィアが一般市民を傷つけないよう警護に当たるなど慈善活動そのものである。
そして何より驚くべきなのは、この「白鷺」の頂点に立っているのがまだ幼い一人の少女だという事だ。
その少女の名を、知世、と言った。
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ぼすりとベッドへ身を沈める。
あれから甲斐甲斐しく髪を拭かれ身体を拭かれ服を着せられ、そしておまけにドライヤーまでかけられた。
あれよあれよという間に全ての作業を終えた男は今は隣にいて。
「電気消すぞ」
「うんー」
「ホラちゃんとかけろ」
「んむ、」
無理矢理頭まで布団を被せられる。
そこから顔を出すと男がこちらを見ていて。あの時の、己を拾ってくれた時と同じ色の瞳が見つめてくる。
暗闇の中でも決して曇ることのない――紅。
己はそれがとても好きだとそう思う。
男が何か言いたげなのを感じてなぁにとこちらも目で返す。
すると男は己の頬へと手を伸ばし親指でひとつ撫でてきた。そうして告げる。
「次の任務が終わったら、お前は前線から外すんだとよ」
男の無感情の言葉が耳に届く。
それを聞いて思った事は。
「…知世ちゃんが?」
「ああ」
「そう…やっぱりね」
「気付いてたか」
「うんだって…血に慣れないマフィアなんて、使い物にならないでしょう?」
今だ手に残る、誰かを傷つけた感触。
辺りに響く肉と骨を切り裂く音。そしてそこから飛び散る赤い血が。
己の頬に服に手に付着する。べたりとまるで絵の具のように。
初めて味わったあのおぞましさは一生忘れられないと思う。いや、初めてかどうかは己には判断出来ないけれど。
「てめぇには向かねんだよ。こういうの」
「そうなの…かなぁ」
「ああ、そうだ」
本当にそうなのだろうか。
疑問に感じたけれど、男が寝ろとでも言うようにその大きな手で目を塞いできたものだから、その思考を一旦止めた。
手探りで男の服の裾を引く。するとその意味を了解したかのように男がベッドの中へと入ってきた。
己とは違う別の人間の温もりを感じ、もっと、とでも言うように身を寄せる。
男はそんな己の肩に手を置き幼子をあやすかのように叩いた。ぽんぽん、と優しく強く。
「寝ろ」
「ぅん…」
男の声が間近に響く。
それだけで力が抜け瞼が降りてくる。とろりとろりと耳から溶かされていく感覚。
それはまるで麻薬のようで。
そうして落ちていく意識の中で思う。
向いていない、と男は言ったが果たしてそうだろうかと。この組織に来た時、メンバーの一員として動きたいと申し出た時。
そしてその能力を試すためにひとつ銃を放った時。
その時のあの感触は。
男を初め、皆驚いていたのを覚えている。綺麗にど真ん中に穴を開けた己に対してひどく。しかし誰よりも驚いたのは自分自身で。
そして次々と明るみに出る己の戦闘能力に、一体何処でそれを覚えたのか誰に教わったのかと聞かれても答えることは叶わなく。
半年前。
冷たく降り続ける雨の中。寒さに震えこのまま死ぬのだろうかとぼんやり考えていた時に出会った、一人の男。
その男にモコナと共に拾われたその時から、己の人生は始まったのだと。
半年前。
己の記憶はそこからしかない。それ以前の記憶は一切脳から抜け落ちていて。
己が何者なのか何処から来たのかその何もかも全てが、無の中にあり。
するりと頬に何か当たる。
その柔らかい感触はあの兎だとすぐに分かった。暖かい生命の体温は己をひどく安心させる。
そして男の腕に抱かれたまま眠りという名の暗闇へ落ちていくのだ。ゆっくりと、しかし確実に。
そうして最後。
――ああ、今日はあの夢を見ないで済むだろうかと。
完全に闇に染まった視界の中で、そう思った。
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